面接
人間的魅力について
生きていると、いろいろなことがある。見たり、聞いたり、触ったり。楽しんだり、悲しんだり、怒ったり。その全てが過去の思い出になる。知らなかったことを知った。行ったことのないところに行った。その瞬間と瞬間の蓄積が今の自分がいるステージとなる。
いろいろなことを体験した人ほど、高いステージにいる。ステージによって見える景色が違うから、ものごとの色んな見方ができるようになる。つまり未体験のものにチャレンジし続ける。これが人間としての魅力を向上させる唯一の方法なのだ。
ところで、人間には「所持」という概念がある。自分の家、お金、服。自分の身内、友達。果ては恋人までも「所持」していると考える人までいる。
ところが自然界に所持なんて概念はない。この言葉に囚われると、余計な情動が生まれてしまう。ストレスになることだってある。
あらゆるものはカオス状態で、ランダムに移動している。それが自然である。それを無理やり引き止めて自分の周囲に置き、高らかに所持を宣言する。あまりに不自然と言わざるを得ない。
だから私は所持という考え方をあまり信用していない。自分のもとへ入ってきたり、出て行ったりして、風通しの良い状態を保ちたいのだ。たくさん所持しても在庫過多では倉庫が重くなる。ガラクタに埋もれて身動きが取れなくなるのだけは避けたい。
だから物を所持しなくていい。それよりも人間としてのステージを積み重ねていきたい。物はステージを上げるための肥やしだ。養分を吸収したら、残りカスは排泄すればいい。ここでいう養分とは、物を所持して使ってみた体験のことだ。
体験を持っている人は、未体験の人に教えることができる。つまり教えてもらいたい人にとっては魅力的な人間なのだ。知っている人同士なら、話題が盛り上がって共感できる。楽しめる。何にも知らない人は蚊帳のそと。つまらないのである。
自分の体に残っている体験や知識。これが人間的な魅力をつくる。体の外にある、高価な服、車、お金、社会的ステータスなどは、本質的な本人の魅力とは別もの。そこに頼ると、真の意味で人間的な魅力を高めることはできない。
逆説的だが、魅力が高まってくるから、周囲のアイテムも相応のものになる。これが物事の順序なのだ。
完璧な演奏について
関ジャニ∞のテレビ番組で、ピアノ対決とカラオケのスコア対決の2本柱にした特番みたいのが面白そうだったので、視聴してみた。実際、面白くて見続けてしまった。
ピアノ対決は、昔のゲーム「ビートマニア」を彷彿とさせた。降ってくるマークの通りに鍵盤をたたいて、いちばんミスが少ない人が優勝というもの。カラオケ対決も採点方法はだいたい一緒。決めれられた音程に忠実に歌えたり、声量、ビブラート、こぶしなどの加点ポイントで得点が決まる。
ここで優勝した人は、視聴者から「すごい」という評価を持ってもらえる。実際、私もすごいと感じた。楽譜に忠実に演奏したり歌ったりできるのは素晴らしいことだ。かなり練習しなければできないだろう。どんなに練習しても、できない人だっているのだ。
ただ、忠実な演奏をするだけなら、機械に任せればいい。そんな野暮なことが頭の中をよぎった。プロ・アーティストとしての価値は、完璧な演奏をすることよりも、視聴者に感動を与えることである。たしかに感動を与えるためには完璧な演奏も必要だ。でも心が動かされない演奏をするプロは、プロ失格だろう。
相手に感動を与えることよりも、自分の演奏を完璧にすることを目的にした時点で、それは趣味の領域となる。だから器用貧乏よろしく、大成しづらい。
単に「忠実な演奏をした」という感動だけでは弱いのだ。楽譜に忠実に演奏できる能力があるのなら、プロミュージシャンとして活躍できそうなもの。カラオケのスコア争いよりも、アーティストのバックで演奏したり、コーラスしたほうが、視聴者の感動を得られそうな気もするのだが、どうだろう。
iPodを買い替えた、が..
1曲でいい
ヒット曲はあるものの、1曲だけブレイクして、あとは鳴かず飛ばずっていうアーティストは、「一発屋」と揶揄される運命にある。ヒット曲1発でずっと活動しているアーティストは、どうやって飯が食えているのか。私には見当もつかない。
最近では、1990年代の懐メロを聴き直すのがマイブームで、いろいろ漁っては、プレイリストに入れて聴きまくっていた。なかでも山根康広さんの「Get Along Together」を聴いたときに、当時の映像を見たくなって、YouTubeを開いた。
映像はすぐに見つかった。ピアノを弾きながら心を込めて歌っている姿を見て、大切に歌ってるなぁ〜と、しみじみ感じた。当たり前だが、本人はやっぱり上手い。これは率直な感想である。しかも、つい最近(とはいえ数年前)もライブでこの曲を歌っているようだった。
ファンならともかく、一般的な認知で言えば、「Get Along Together」しか知らない人がほとんどだろう。となれば、キャリアが続くかぎりこの曲を歌い続ける宿命にある。同じ曲をひたすら歌い続けるなんて、うんざりしそうだが、むしろこの1曲だけで生活できているのであれば、それはそれですごいことである。
山根康広さんはシンガーソングライター。だから作詞作曲をしている。完全に無の状態から生み出した曲は、自分の分身のようなもの。その曲を歌い続けることで飯が食えている。頭の中から作品を生み出して、体ひとつで勝負している感じがカッコイイと思った。
現役で活動しているということは、とうぜん新曲も作り続けているのだろう。でも、私には「Get Along Together」で十分。それを上回る良い曲があるとしても、それを自分で見つけたいとは思わない。ファンからしたら失礼な話だろう。でもこれが本音である。
昔の記憶の中で存在しているセピア色に褪せた状態だからこそ、ノスタルジーを感じる。この感じが加算されて、良いと思えるのも事実だ。
したがって、ファンでもなく、彼の物語を共有しているわけでもない私が、いくら新曲を聴いても「Get Along Together」を上回る曲になる確率は低い。だから私は今後も、たまに「Get Along Together」を聴くだろうし、カラオケで歌うこともあるかもしれない。
そして本人にも、「Get Along Together」はずっと歌い続けてほしいと思っている。同じ歌でも、歌い続けると年齢を重ねるごとに、皮革製品のような味が出るのが感慨深かった。
要するに私は、山根康広さんが「Get Along Together」を歌い続けてきた歴史に感情移入しているのだ。だから今後も「Get Along Together」以外の歌を覚えることはないだろう。
馬を川の前まで連れて行くことはきても、水を飲ませることはできない
「馬を川の前まで連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」
むかしの格言のようだが、誰のものかはわからない。でもなぜかこのフレーズだけは覚えていた。水を飲むかどうかは馬が決めること。すなわち、すすめられても楽しむかどうかは本人次第というわけだ。
私はこれまで幾度となく、いろんな人に川へ連れて行ってもらい、ほとりで水を勧められた。しかし水を飲むことは稀だったし、試しに飲んでも心からうまいと感じることはなかった。
ところが、かなり時間が経ってから自分の足で偶然その川にたどり着き、そこで飲んだ水のうまさは格別だった。
チャンピオン
年末、22時か、23時ぐらいに目が覚めた。テレビでは紅白歌合戦が終盤で、チャンネルを適当にザッピングしていると、ボクシング内山高志選手の試合がやっていた。去年末に負けた相手との再戦だった。ところが内山選手は同じ相手に連敗してしまう。これはもう引退してしまうのかもしれない、と思った。
生きる権利を主張できるのは人間だけ
先日、「人間の強さは圧倒的」という記事をポストしたが、その好例が以下の動画。この生活が、多くの「いのち」の犠牲の上で成立していることを実感できる。
【動画】フォアグラ: 拷問されるカモ
カモに「生きる」「死ぬ」の選択肢は用意されていない。死ぬことが前提。人間がおいしいフォアグラを食べれればいいのだ。
意図的に隠されたプロセス
わたしたちは「食」について、ほんとうの教育を受けていない。そのため、”生きた動物”と”食卓の肉”に関連性を持たせることができない。これは、”生きた動物”から”食卓の肉”までのプロセスが目に入らないように隠されているからである。飲食店の調理スタッフでさえ、加工済みの食材から調理をはじめるのだ。
食べられることが決まった状態で生まれてくる「いのち」。より安価でおいしい肉の追求。そのためなら、どんな残酷な方法でも採用される。「いのち」は合理的な処理・加工の工程を経て、わたしたち人間が望む形となって納品される。逆を言えば、人間が望むからこそ残酷な拷問が存在するのだ。
誰ひとりフォアグラを欲しがらなければ、多くのカモが拷問を免れるだろう。
なかなかできないが実行することの重要さを考えてみる
1日は24時間。社会的地位やEQの高さに関係なく、どんな人でもこのルールに従わなければならない。そのかわり、どの時間にどの行動をとるのかは自分で好きに決めていいことになっている。仕事をしたければすればいいし、眠かったら寝てもいい。寝る間を惜しんでゲームをするのもいいだろう。24時間という枠は固定されているが、行動を選択する自由は保障されているのだ。
やるべきことはたくさんある。でも身体はひとつしかない。だからとれる行動は常に「したい行動の第1位」に限定される。勉強したいはずなのにできないのは、したい行動の第1位が「勉強」ではないからだ。勉強しなければならないのに、だらだらしてしまうのは、したい行動の第1位が「だらだらすること」だったというだけのこと。
24時間という1本のタイムラインにおいて、ひとつの時間にできることはひとつだけ。仕事しているときに遊ぶことはできないし、遊んでいるときに試験勉強なんてできない。短期的な快楽に24時間の多くを費やす人がいる反面、まったく同じ時間を、勉強や仕事などの中長期的な自己投資に当てている人も存在する。
そしてこれらの行動はすべて自己責任。自分で行動を選択してきたから今の自分がある。今の自分は過去の行動全てが蓄積された「結果」なのだ。
過去を振り返る必要はない
時間という一方通行の次元をどのような行動で埋めていくのか。それが今後の人生を決定づける。時間軸上でいう「現在」とは、過去の行動を積み重ねてきた集大成だ。いま現在の体型、知能、人脈などは、過去にこれまで行動してきた結果を表している。プロのアスリートの鍛え上げられた肉体。これは過去に練習してきた結果であり、それ以上も以下もない。
どんな人でも、いちど会って会話をすればある程度の人間性が理解できる。見た目の体型や服装、身だしなみの清潔感で品格の度合いがわかる。ちょっとした話し方や立ち振る舞いにその人の歴史がにじみ出てしまうものだ。自分を磨くには、そのあたりを意識し、長期間にわたって継続、習慣にしなければならない。
実質、いま(現在)から死ぬまでが残された時間である。実感が湧かなくても、すでにカウントダウンは始まっている。”五体満足で健康的な生活を送れる期間”に限ればもっと期間は短くなる。あらゆるリスクの最小化、すなわち「予防」があらゆる行動の最優先事項であり、そこに時間を集中投資することが、結果的に時間の最大化となる。
病気になってから治療したのでは時間がかかる。病気にならないような生活を心がける。これがもっとも時間効率の良い方法だろう。未来がもっと良くなるための行動。それこそが今すべき行動である。絶対に動かせない過去を振り返ったところで得るものは少ない。後ろを振り返っている間にも時間は容赦なく進んでいるのだ。
人間の強さは圧倒的
現代の人間は、生態系ヒエラルキーのトップに君臨している。他種がどんなに抵抗しても抗えない圧倒的な実力差がある。だから欲しいものがあれば、どんなに残酷なことをしてでも手に入れることができる。
牛丼が食べたければ、牛を始末して、その肉をスライスしなければならない。誰かが牛に残酷なことをしているから店で牛丼を出せるのだ。この事実を忘れてはならない。
また、多くの人間が牛乳を飲みたいと思えば、店頭にたくさんの牛乳が並ぶ。おびただしい量の牛乳は、とうぜん牛の乳から出る。牛の数には限りがある。なので、どんなに衰弱しても、限界まで牛乳を搾り取る。通常20年ほど生きる乳牛もこのような過酷な状況下では5年と生きられないという。そんな、どう考えても健康的とは言えない乳牛の肉は、無慈悲にミンチにされた挙句、ファストフードのハンバーグとなり役目を終える。
人間が人間以外の動物を殺したり虐待しても、一切お咎めはない。法律は人間を守るためにある。他の動物を守るためではない。魚に生きたまま包丁を入れて、刺身にしても手錠をかけられることはない。ペットを飼って家に監禁して自由を奪っても、何の罪に問われない。ただし、これを人間にやったら直ちに犯罪となる。逆をいえば、対象が人間でなければ許される。なんと人間にとって都合のいい世界だろうか。
1000円でビーフステーキのランチを食べる。決して死にたいと思ってはいないであろう牛が何の抵抗もできずに殺害され、ランチ1食分の大きさにバラされる。それをたった1枚の紙きれと引き換えに食べることを許されるのだ。この1000円の価値ってなんだろう。時給1000円のアルバイトで1時間ぼけーっと立ってるだけで、動物のいのちを食べていい許可が下りる。
この許可は、人間が人間に対してすることだ。動物たちに生殺与奪の権限は与えられていない。動物は殺されることが前提なのだ。仮に、自分が動物の側だったらという想像をしてみると、いかに人間が恐ろしい存在なのかがわかる。絶対に助からない絶望感を味わいながら、人生に終わりを告げることだろう。
■参考作品