セレンディピティの洞窟

ふと浮かび上がった仮説のメモ

馬を川の前まで連れて行くことはきても、水を飲ませることはできない

10代の頃からヒップホップばかりを聴いていて、ポップスにはあまり関心がなかった。ポップスは、テレビやラジオ、有線放送などで流れているから勝手に耳に入ってくる。だからたくさん曲は知っている。でも心から良いと思える楽曲は少なかった。というより真剣に耳を傾けたことすらなかった。
 
しかし年を重ねると、意外にもヒップホップに対する魅力が薄れてきた。死ぬまでヒップホップ的なライフスタイルを貫き通す。私はそう心に誓っていたはずだった。にもかかわらず、心は容赦なく離れていった。ヒップホップというのは、その性質上、若者に限定されたカルチャーなのだ。
 
ヒップホップの世界に埋没していた日々。この世界から外に出て、もっと広い世界を見渡すと、眼前には広大な世界が広がっている。そこにあるのはメインストリーム。すなわちポップスの世界だった。それから、なんとなく耳に入っていた過去のポップスを聴くようになる。
 
ある日、Kiroroの曲を久しぶりに聴いた。たぶん20年ぐらい前の曲。当時リアルタイムで耳にしていたときは、「沖縄の女性が歌ってるバラード」ぐらいにしか思っていなかった。
 
いま聴いてみるとわかる。ボーカルの声と安定した歌唱力に驚愕した。今になって歌詞が心に刺さる。あの頃から、こんなにやさしく歌っていたのかと、今さらながらに気付かされた。
 
曲としては知っていても、よっぽど好きでなければ、歌そのものや歌詞などをじっくりと聴く機会はない。また、新曲としてリリースされた時期に、ちょうど心に刺さる保証もない。となると、今の心境に、過去の名曲をぶつけた方がマッチする可能性がグッと上がるのではないだろうか。
 
つまり、名曲はずっとある。それが名曲だとわかるタイミングは人それぞれ。私の場合、人に勧められたり、なんとなく流れてるときにはピンと来なかった。でも、時期が来れば、それが名曲であると理解できる。話題になった理由が腑に落ちるようになる。

 

「馬を川の前まで連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」

 

むかしの格言のようだが、誰のものかはわからない。でもなぜかこのフレーズだけは覚えていた。水を飲むかどうかは馬が決めること。すなわち、すすめられても楽しむかどうかは本人次第というわけだ。

 

私はこれまで幾度となく、いろんな人に川へ連れて行ってもらい、ほとりで水を勧められた。しかし水を飲むことは稀だったし、試しに飲んでも心からうまいと感じることはなかった。

 

ところが、かなり時間が経ってから自分の足で偶然その川にたどり着き、そこで飲んだ水のうまさは格別だった。

 

他人にすべてを委ねてしまっては楽しめない。自分の力で探し当てるからこそ、楽しいのだ。この法則を知ってからというもの、自分の心の内なる声を聞き、いまの気分に沿った行動を心がけている。

チャンピオン

年末、22時か、23時ぐらいに目が覚めた。テレビでは紅白歌合戦が終盤で、チャンネルを適当にザッピングしていると、ボクシング内山高志選手の試合がやっていた。去年末に負けた相手との再戦だった。ところが内山選手は同じ相手に連敗してしまう。これはもう引退してしまうのかもしれない、と思った。

 

というのも、この選手が今まで負けているところを前回の敗戦まで見たことがなかったからだ。実際、負けてなかったのだと思う。だから前回の負けには衝撃を受けた。ちなみに私はボクシングに詳しいわけではない。テレビで特番が組まれるレベルの試合をたまに見ることがある程度。なので専門的なことはわからない。
 
ただ世界中にごまんといるボクサー人口の中で、チャンピオンになれるのは、ほんのひと握りなのは事実である。そして内山選手はチャンピオンになってからも10回以上防衛している筋金入りのチャンピオンだった。
 
いち素人の意見としては、「強さ」とは別に「相性」というのがあって、ボクシング・スタイルの相性が悪すぎた場合、「強さ」の差を凌駕して勝てないのではないのかと思ったのだ。
 
内山選手は間違いなく強い。でもあまりに相性の悪い相手と当たってしまった。だから負けた、という仮説である。この仮説を前提に話を進めると、内山選手は「何度も防衛したチャンピオン」になれただけ幸運なのだと思う。
 
仮に、プロデビューして間も無く、非常に相性の悪いボクサーと立て続けに何度も当たって連敗したとする。すると、どんなに練習しても勝てない、自分は弱いのかもしれない、と思ってしまうだろう。そこで諦めてしまえば、芽が出る前に引退することになる。続けていれば、その後チャンピオンになる可能性だってあるかもしれないのに。
 
キャリア序盤で相性の悪い相手に連戦連敗したら、歴史に名を刻むチャンスを失ってしまうってこともあり得るんじゃないか。なんてことを、この年末の試合を観て感じた。
 
でも、相性を凌駕するほど強くないとチャンピオンにはなれないんだろうな、というのが本音である。

生きる権利を主張できるのは人間だけ

先日、「人間の強さは圧倒的」という記事をポストしたが、その好例が以下の動画。この生活が、多くの「いのち」の犠牲の上で成立していることを実感できる。

【動画】フォアグラ: 拷問されるカモ

カモに「生きる」「死ぬ」の選択肢は用意されていない。死ぬことが前提。人間がおいしいフォアグラを食べれればいいのだ。

意図的に隠されたプロセス

わたしたちは「食」について、ほんとうの教育を受けていない。そのため、”生きた動物”と”食卓の肉”に関連性を持たせることができない。これは、”生きた動物”から”食卓の肉”までのプロセスが目に入らないように隠されているからである。飲食店の調理スタッフでさえ、加工済みの食材から調理をはじめるのだ。

食べられることが決まった状態で生まれてくる「いのち」。より安価でおいしい肉の追求。そのためなら、どんな残酷な方法でも採用される。「いのち」は合理的な処理・加工の工程を経て、わたしたち人間が望む形となって納品される。逆を言えば、人間が望むからこそ残酷な拷問が存在するのだ。

誰ひとりフォアグラを欲しがらなければ、多くのカモが拷問を免れるだろう。

なかなかできないが実行することの重要さを考えてみる

1日は24時間。社会的地位やEQの高さに関係なく、どんな人でもこのルールに従わなければならない。そのかわり、どの時間にどの行動をとるのかは自分で好きに決めていいことになっている。仕事をしたければすればいいし、眠かったら寝てもいい。寝る間を惜しんでゲームをするのもいいだろう。24時間という枠は固定されているが、行動を選択する自由は保障されているのだ。

やるべきことはたくさんある。でも身体はひとつしかない。だからとれる行動は常に「したい行動の第1位」に限定される。勉強したいはずなのにできないのは、したい行動の第1位が「勉強」ではないからだ。勉強しなければならないのに、だらだらしてしまうのは、したい行動の第1位が「だらだらすること」だったというだけのこと。

24時間という1本のタイムラインにおいて、ひとつの時間にできることはひとつだけ。仕事しているときに遊ぶことはできないし、遊んでいるときに試験勉強なんてできない。短期的な快楽に24時間の多くを費やす人がいる反面、まったく同じ時間を、勉強や仕事などの中長期的な自己投資に当てている人も存在する。

そしてこれらの行動はすべて自己責任。自分で行動を選択してきたから今の自分がある。今の自分は過去の行動全てが蓄積された「結果」なのだ。

 

過去を振り返る必要はない

時間という一方通行の次元をどのような行動で埋めていくのか。それが今後の人生を決定づける。時間軸上でいう「現在」とは、過去の行動を積み重ねてきた集大成だ。いま現在の体型、知能、人脈などは、過去にこれまで行動してきた結果を表している。プロのアスリートの鍛え上げられた肉体。これは過去に練習してきた結果であり、それ以上も以下もない。

どんな人でも、いちど会って会話をすればある程度の人間性が理解できる。見た目の体型や服装、身だしなみの清潔感で品格の度合いがわかる。ちょっとした話し方や立ち振る舞いにその人の歴史がにじみ出てしまうものだ。自分を磨くには、そのあたりを意識し、長期間にわたって継続、習慣にしなければならない。

実質、いま(現在)から死ぬまでが残された時間である。実感が湧かなくても、すでにカウントダウンは始まっている。”五体満足で健康的な生活を送れる期間”に限ればもっと期間は短くなる。あらゆるリスクの最小化、すなわち「予防」があらゆる行動の最優先事項であり、そこに時間を集中投資することが、結果的に時間の最大化となる。

病気になってから治療したのでは時間がかかる。病気にならないような生活を心がける。これがもっとも時間効率の良い方法だろう。未来がもっと良くなるための行動。それこそが今すべき行動である。絶対に動かせない過去を振り返ったところで得るものは少ない。後ろを振り返っている間にも時間は容赦なく進んでいるのだ。

人間の強さは圧倒的

現代の人間は、生態系ヒエラルキーのトップに君臨している。他種がどんなに抵抗しても抗えない圧倒的な実力差がある。だから欲しいものがあれば、どんなに残酷なことをしてでも手に入れることができる。

 

牛丼が食べたければ、牛を始末して、その肉をスライスしなければならない。誰かが牛に残酷なことをしているから店で牛丼を出せるのだ。この事実を忘れてはならない。

 

また、多くの人間が牛乳を飲みたいと思えば、店頭にたくさんの牛乳が並ぶ。おびただしい量の牛乳は、とうぜん牛の乳から出る。牛の数には限りがある。なので、どんなに衰弱しても、限界まで牛乳を搾り取る。通常20年ほど生きる乳牛もこのような過酷な状況下では5年と生きられないという。そんな、どう考えても健康的とは言えない乳牛の肉は、無慈悲にミンチにされた挙句、ファストフードのハンバーグとなり役目を終える。

 

人間が人間以外の動物を殺したり虐待しても、一切お咎めはない。法律は人間を守るためにある。他の動物を守るためではない。魚に生きたまま包丁を入れて、刺身にしても手錠をかけられることはない。ペットを飼って家に監禁して自由を奪っても、何の罪に問われない。ただし、これを人間にやったら直ちに犯罪となる。逆をいえば、対象が人間でなければ許される。なんと人間にとって都合のいい世界だろうか。

 

1000円でビーフステーキのランチを食べる。決して死にたいと思ってはいないであろう牛が何の抵抗もできずに殺害され、ランチ1食分の大きさにバラされる。それをたった1枚の紙きれと引き換えに食べることを許されるのだ。この1000円の価値ってなんだろう。時給1000円のアルバイトで1時間ぼけーっと立ってるだけで、動物のいのちを食べていい許可が下りる。

 

この許可は、人間が人間に対してすることだ。動物たちに生殺与奪の権限は与えられていない。動物は殺されることが前提なのだ。仮に、自分が動物の側だったらという想像をしてみると、いかに人間が恐ろしい存在なのかがわかる。絶対に助からない絶望感を味わいながら、人生に終わりを告げることだろう。

 

■参考作品

Earthlings