セレンディピティの洞窟

ふと浮かび上がった仮説のメモ

生きる権利を主張できるのは人間だけ

先日、「人間の強さは圧倒的」という記事をポストしたが、その好例が以下の動画。この生活が、多くの「いのち」の犠牲の上で成立していることを実感できる。

【動画】フォアグラ: 拷問されるカモ

カモに「生きる」「死ぬ」の選択肢は用意されていない。死ぬことが前提。人間がおいしいフォアグラを食べれればいいのだ。

意図的に隠されたプロセス

わたしたちは「食」について、ほんとうの教育を受けていない。そのため、”生きた動物”と”食卓の肉”に関連性を持たせることができない。これは、”生きた動物”から”食卓の肉”までのプロセスが目に入らないように隠されているからである。飲食店の調理スタッフでさえ、加工済みの食材から調理をはじめるのだ。

食べられることが決まった状態で生まれてくる「いのち」。より安価でおいしい肉の追求。そのためなら、どんな残酷な方法でも採用される。「いのち」は合理的な処理・加工の工程を経て、わたしたち人間が望む形となって納品される。逆を言えば、人間が望むからこそ残酷な拷問が存在するのだ。

誰ひとりフォアグラを欲しがらなければ、多くのカモが拷問を免れるだろう。