セレンディピティの洞窟

ふと浮かび上がった仮説のメモ

人間の強さは圧倒的

現代の人間は、生態系ヒエラルキーのトップに君臨している。他種がどんなに抵抗しても抗えない圧倒的な実力差がある。だから欲しいものがあれば、どんなに残酷なことをしてでも手に入れることができる。

 

牛丼が食べたければ、牛を始末して、その肉をスライスしなければならない。誰かが牛に残酷なことをしているから店で牛丼を出せるのだ。この事実を忘れてはならない。

 

また、多くの人間が牛乳を飲みたいと思えば、店頭にたくさんの牛乳が並ぶ。おびただしい量の牛乳は、とうぜん牛の乳から出る。牛の数には限りがある。なので、どんなに衰弱しても、限界まで牛乳を搾り取る。通常20年ほど生きる乳牛もこのような過酷な状況下では5年と生きられないという。そんな、どう考えても健康的とは言えない乳牛の肉は、無慈悲にミンチにされた挙句、ファストフードのハンバーグとなり役目を終える。

 

人間が人間以外の動物を殺したり虐待しても、一切お咎めはない。法律は人間を守るためにある。他の動物を守るためではない。魚に生きたまま包丁を入れて、刺身にしても手錠をかけられることはない。ペットを飼って家に監禁して自由を奪っても、何の罪に問われない。ただし、これを人間にやったら直ちに犯罪となる。逆をいえば、対象が人間でなければ許される。なんと人間にとって都合のいい世界だろうか。

 

1000円でビーフステーキのランチを食べる。決して死にたいと思ってはいないであろう牛が何の抵抗もできずに殺害され、ランチ1食分の大きさにバラされる。それをたった1枚の紙きれと引き換えに食べることを許されるのだ。この1000円の価値ってなんだろう。時給1000円のアルバイトで1時間ぼけーっと立ってるだけで、動物のいのちを食べていい許可が下りる。

 

この許可は、人間が人間に対してすることだ。動物たちに生殺与奪の権限は与えられていない。動物は殺されることが前提なのだ。仮に、自分が動物の側だったらという想像をしてみると、いかに人間が恐ろしい存在なのかがわかる。絶対に助からない絶望感を味わいながら、人生に終わりを告げることだろう。

 

■参考作品

Earthlings