セレンディピティの洞窟

ふと浮かび上がった仮説のメモ

なかなかできないが実行することの重要さを考えてみる

1日は24時間。社会的地位やEQの高さに関係なく、どんな人でもこのルールに従わなければならない。そのかわり、どの時間にどの行動をとるのかは自分で好きに決めていいことになっている。仕事をしたければすればいいし、眠かったら寝てもいい。寝る間を惜しんでゲームをするのもいいだろう。24時間という枠は固定されているが、行動を選択する自由は保障されているのだ。

やるべきことはたくさんある。でも身体はひとつしかない。だからとれる行動は常に「したい行動の第1位」に限定される。勉強したいはずなのにできないのは、したい行動の第1位が「勉強」ではないからだ。勉強しなければならないのに、だらだらしてしまうのは、したい行動の第1位が「だらだらすること」だったというだけのこと。

24時間という1本のタイムラインにおいて、ひとつの時間にできることはひとつだけ。仕事しているときに遊ぶことはできないし、遊んでいるときに試験勉強なんてできない。短期的な快楽に24時間の多くを費やす人がいる反面、まったく同じ時間を、勉強や仕事などの中長期的な自己投資に当てている人も存在する。

そしてこれらの行動はすべて自己責任。自分で行動を選択してきたから今の自分がある。今の自分は過去の行動全てが蓄積された「結果」なのだ。

 

過去を振り返る必要はない

時間という一方通行の次元をどのような行動で埋めていくのか。それが今後の人生を決定づける。時間軸上でいう「現在」とは、過去の行動を積み重ねてきた集大成だ。いま現在の体型、知能、人脈などは、過去にこれまで行動してきた結果を表している。プロのアスリートの鍛え上げられた肉体。これは過去に練習してきた結果であり、それ以上も以下もない。

どんな人でも、いちど会って会話をすればある程度の人間性が理解できる。見た目の体型や服装、身だしなみの清潔感で品格の度合いがわかる。ちょっとした話し方や立ち振る舞いにその人の歴史がにじみ出てしまうものだ。自分を磨くには、そのあたりを意識し、長期間にわたって継続、習慣にしなければならない。

実質、いま(現在)から死ぬまでが残された時間である。実感が湧かなくても、すでにカウントダウンは始まっている。”五体満足で健康的な生活を送れる期間”に限ればもっと期間は短くなる。あらゆるリスクの最小化、すなわち「予防」があらゆる行動の最優先事項であり、そこに時間を集中投資することが、結果的に時間の最大化となる。

病気になってから治療したのでは時間がかかる。病気にならないような生活を心がける。これがもっとも時間効率の良い方法だろう。未来がもっと良くなるための行動。それこそが今すべき行動である。絶対に動かせない過去を振り返ったところで得るものは少ない。後ろを振り返っている間にも時間は容赦なく進んでいるのだ。